今日は比較的いつもより笑った1日だったと思う。

でも夜に一気に悲しみがこみ上げてきたのだ。

 

悲しくなったり苦しくなるとある女の人に「そういう時は自分が妊婦だから気分の変動があるので仕方ない。と思うようにしたらいいよ」と言われたことを思い出すようになった。

 

一時の気休めでも何か不可抗力の物のせいにしてしまえるならすがる他なかったのだ。

 

今まではそんな風に言われても納得ができなかったと思うが、胎児は母体の感情を感じることが出来母親の感情で体内の居心地が変わると聞いてから自分事に出来ずなるべく悲しみや苦しみから慌てて目を背けるようになった。

 

私をよく知る友人に妊娠の報告をした際、「君は母親になることでこれからきっといい方向へ変化していく気がする」と言われたことを思い出した。

 

その言葉で心の何処かにあった形容しがたい靄に気づいた。

 

自分が子を授かったことで涙を流して喜んでくれた友人も同様に。

 

私は多分心の何処かで「自分が妊娠した」という事実を認めたくなかったのかもしれない。

何処かで自分を恥じて、醜く哀れな人間の分際で一人の母親になることが許されるべきでないと思っていたのかもしれない。

 

そう思えた時少し気持ちが落ち着いた。

やっぱりどこまで行っても私という人間は未熟で自分を卑下する事が思考の根本にある人間なのだ。そう考えねば今まで生きてこれなかったはずなのに世迷いごとのように「幸せ」で自分を見失って浮かれていたのだ。

 

実際のところ楽な生き方だ。

自分を卑下し、成長への努力をしているうちというのは大概他人からの攻撃は守れるのだから。

 

私は一方的に幸せだけを見て生きていけない人間である。

悲しみや苦しみがいつも隣につきまとって彼らとうまく折り合いをつけ納得し前に進むのがベーシックな自分の在り方。その折り合いがついた時確かに感じる成長を私は幸せと感じたいたのだから。

 

沢山の人からのお祝いの言葉や励ましは何もかも眩くて自分がなんだか特別なもののように感じたあの違和感もきっとこれで解消できた。

人に言葉を貰う度「私は幸せでいなくてはいけない」「納得でいなくても幸せいっぱいを装わなければいけない」「私は世間一般的に幸せに溢れる立場なのだ」なんて思わなくていい。

 

私たちは皆が平等にしっかりと幸福で、しっかりと不幸なのだ。

ただタイミングと種類に多少の差があるだけの簡単な話なのだ。

 

人間は嬉しいことや喜ばしいことだけが幸せではない。

人によって幸せのあり方は様々なのだ。

 

私はなんて事のないただの私である事。

子どもや夫、それ以前に自分がどういう人間でどのように生きてきて、今後どのように生きていくのか、もう一度止まってよく考えねばならないのだ。

 

きちんと己の軸を知り、理解すればきっと今後私はより一層生きやすくなろのだろうから。

 

そうやって大切な夫と、その夫との間に生まれる子をしっかり愛していきたいな。

 

中々寝れない夜が続くがそんな日はこうやって思考を巡らすのもいいものだな。