not sugar 003

他人の幸福に振り回され酷く体力を消耗する日々だ。

 

 

今の生活の形は太陽の周りを他の惑星が回っているが如く、家族を中心核として様々な要因がその周りを飛んでいるようなものだ。

 

そして「好意」という名の矢を致命傷にならないように身体中の弱点を避けながら受け止める練習の毎日だ。きっと普通の人は大きく手を広げその矢を全身に刺して、他人にこれでもかと披露して歩くのだろうけど、私はちょっぴりそれが苦手だ。

 

そういう人たちは刺さる矢から痛みを感じていないしアドレナリンどっくどくなのだろうか。若しくはその人達はきっと魔法使いか能力者で矢が身体に刺さる瞬間に矢の先が吸盤に変化して刺さるのではなく吸着しているのだろうか。

 

まぁどのみち私は一般的な非能力者で只の凡人なので、「あくまでも善意への道には悪意が敷き詰められている」と思っているし、他者からの好意や自分から他者への好意は時として矢にも銃弾にもナイフにもなると思っている。

 

今までは好意って言うものはきっと柔らかい綿のようなふわふわした、そして甘いものだった。でももう今では私には矢のような鋭利なものでしかないんだ。

 

でも他人からの鋭利な刃物が全て嫌だというわけではないんだ。だって仮に鋭利だとしてもそれは他人との交じり、コミュニケーションだし?人間同士のコミュニケーションは生きているうえで失くせない代物だし?時に傷ついて血を流し体内の血液を生成する事って私にとってもとても必要なものだと思うし?まぁ痛くないときだってあるしね。

 

ただ基本的には鋭利であるから取り扱いには気をつけましょうねって話で、こっちのほうが何かと納得のいくことが多いのだ。

 

そのそも大前提として

この世で一番大好きな旦那さんだって、他人だし

この世で一番愛らしいわが子だって、他人だよ。

 

おなかを痛めて産んでくれたお母さんだって他人だし

いつだって何時だって心配してくれるお父さんだって他人だ

 

出会った時からずっと尊敬して止まない教授だって他人だし

死んだおばあちゃんやおじいちゃんだって他人だよね

 

勿論今すれ違った貴方だって「他人」

 

ねえ、でもなんだか時代は難しくなっていって他人という言葉はどこまでも忌々しいね。1から10まで話す必要のある事をどこまでも簡略化して、関係をどんどん疎遠化したがる。私から言えばそれこそが忌々しいけれど。

 

自分のたった29年しかない人生経験の中から選ぶ決断が如何に浅はかか現実を見ると吐きたくなるし、自分の愚かさと醜さに気が滅入るよ。

 

でもそれでも前を向く事が正しいと怒鳴られるし、止まって考える時間は与えられずよそ見をせず直向きに走る奴が偉いみたいな無言の圧の中、私だけは罵声を浴びせられないようになんとか歩いている感じ。

そもそもいつスタート地点に立たされたのか誰一人覚えちゃいないだろ。

 

実際は他人は誰一人として自分に興味がないと分かっているし、そんなこたぁいわれるまでもなく真意ですよ。

 

だから私はなるべく早く能力者になって善意を手で受け止めたいし、なるべく痛くなく矢を体に刺してやりたい。

 

大嫌いな秋がやっと終わって今年ももう終わりそうです。

沢山の人からの好意を良い意味に捉えて素直に嬉しいと感謝できる人間に早くなりたいです。本心で「いつも良くして頂いて有難うございます。」と言いたいな。