1124はなまる

昨日8年の付き合いになる大学教授と3年の付き合いになる大学教授に結婚の挨拶と夫の紹介をするため池袋に足を運んだ。

 

背の高いビルディングの窓際の席、少し曇りがかって季節を感じれる空を横目にシャンパンで乾杯をした。

 

この後ジムに行く予定がある教授と私はノンアルコールを楽しみ、もう一人の教授と夫は食事に合わせて白と赤のワインを飲んでいた。

 

お店側の気遣いも素晴らしく妊婦への配慮もとても有り難かった。

 

2人の教授は現在経営の分野を教えているため夫へも仕事面での話から始まったが魚料理を食べるころには随分夫も打ち解け自分の話をしていたので驚いた。

 

その後本当に様々な話をした。

 

2人とももう年齢的に落ち着いてもいい頃なのにまだまだ現役で様々な仕事や趣味でご活躍されている人だ。

 

8年付き合いになる教授はいつも私より私を理解し、問題を抱えた途方に暮れた時には全く目をつけていないところから問題解決の糸口を垂らす事をしてくれる人。

 

いつだってストレスフリーで楽しい人生を歩みたい。というモットーのもと自分に素直に率直に生きている。心の底から私が憧れる人間だ。

 

この人には何も包み隠さず接してきた。

彼は私に対して理解できない事は理解が出来ないと言ってくれるし、それでも私を勤勉で努力家だと評価しいつも手を差し伸べてくれた。

 

 

ここ数年身内の不幸が重なって毎年のように喪中だった私はいつのまにか生と死について少し離れた所に来ていたようで、人の死になれるというのはとても悲しいと感じていた。

 

人はいつか死ぬ。

例外はなく生まれればいつか必ず死ぬ。

 

そういう事を多分昔はもっと身近にまるで隣にあるように感じていたのに、最近は自分の幸せ事で埋もれてしまっていたような感じだ。

 

改めて最近それを実感したのは自分が妊娠したことと、大好きな教授との対談する時間があったからだと思う。

 

自分が妊娠して体内に自分とは別の生命がある事や、その生命が目には見えないのに確かに自分の体内で蠢いて日に日に存在感が大きくなったことで自分が母親として責任を持ってこの子の手を引いて生きねばならないという事。

 

恋人から夫と立場が変わり、ごく何気ない事でも文章に起こせばなんだかとても意味合いが重くなるような事が多くなった事

 

皆普通にこなす事、ただ普通の手続き、当たり前の生活

でも文章にするだけで責任や重みが絡まってくるのだ。

 

その責任を背負いながら他人事にはできない夫や子どもの為に労働し生活していく中でも必ず彼らは死ぬのだ。

 

父親も母親も友達もいつか死ぬ。

この先30年後かもしれないし10年後かもしれない。

明日かもしれないし明後日かもしれない。

今夜「ただいま」という声が聞こえないかもしれない。

 

今までそう思って理解していた事を理解したくない自分がいることに気が付いたのだ。

その気づきのきっかけは大好きな8年付き合いの教授の存在だ。

 

元々結婚が決まった時すぐ報告はしていて、凄く安心したように「おめでとう」笑ってくれた顔がいまだに記憶から薄れない。

 

その笑顔を見た時、私はこの人という存在を失いたくないと思ったのだ。

自分の憧れの存在で、ずっと神のように生きていて欲しい。

この人は沢山の人に必要とされているし、必要とされるべき人間だと、先生には心の底から満足のいく最高の人生を歩んで欲しいという希望と同じほどいつまでも対談し遠くない距離に存在してほしいという私のエゴ。

 

純粋に「死んでしまったらどうしよう」「さみしい」「考えたくない」という感情で涙が止まらなくなった。

 

夫も父や母もいずれ居なくなる。

もう二度と会えなくなる。

もう亡くなって二度と会えない祖母や祖父のように・・・・。

 

その時私は死について目をそむけたいと思っている事に気づいたのだ。

 

昨日は随分と楽しくて自分の好きな人達が顔を合わせる時間が最高に幸せな時間だと感じた。楽しそうな夫の顔も満足そうな教授達の顔も見れて良かった。

 

「幸せそうだ」と言われることで私は今溢れんばかりの多幸に包まれている事がその場の3人に伝わったのも嬉しかった。

 

この人たちと関係を持った以上、どの角度、どんな場所にいてもこの人たちの顔に泥を塗らない人間でいる努力をしようと改めて思ったよ。